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「そろそろ語っておくか」って書くのがお約束なようで

始まりのエントリーから1ヶ月ほど経ったので、あのときの私の意見や感想など、思ったこと全てをまとめておく。
まず、始めに断っておかなければならないのは、例のやりとりは、企画そのものとは全く関係ないということだ。トラセンキルトクールも関係ない。私と相手の単なる対話形式のやりとりのみだ。
また、ここでは相手の意見はまとめない。一ヶ月経ったとはいえ、相手の意見を中立的にまとめることができるかどうか分からないからだ。
そして、書いたものを読み返してみて、相手の個人批判になってしまっているのは否定できない。これは私の思ったこと、つまり、極めて主観的なものだ。であるから、この文章で安易に相手を判断しないで欲しい。この批判だけでそうだと信じ込まないで欲しい。相手がどうであるか、それは相手の文章のみによって判断されるべきだ。
では何故書くのかというと、99%は私自身に対するちゃんとしたけじめとしてだ。自己満足である。であるから、これを読んで不快に思う人もいると思う。この文章に対する批判は全て受けることにする。
恐らく、はたから見れば、意味の無い議論に映ったと思う。私の意見をまとめることで、少なくとも私の言いたいことは理解できるだろう。この無意味な議論が何だったのか理解することの足がかりになってくれればよいと思う。
始まりは、「こう書けばこう思うだろう」ということからだった。
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070324#1174746110
ここで書いたことは、三点だ。一つ目は、単純に「こういった書き方をすれば批判もされるだろう」ということだ。それを分かってて、敢えて書いたのかはわからない。ちゃんとした理由があってのことなら、知りたいとはおもった。ここが、今後、私の意見の中核になる。
二つ目が、JRA賞に投票理由を付記することを義務付けたとして、それを理由に投票を回避する記者がいたとしても、我々一ブロガーが安易に批難してはならない、ということだ。特に「記者をやる資格はない」というような趣旨であれば、その圧力から投票の自由さが奪われ、よりつまらないものになりかねないからだ。
三つ目、私自身がエントリーの一文によって批難されうる立場にあったため、一応筋としては、その理由を述べられることを匂わせておいた。(あまり褒められた理由ではなかったため)
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070328#1175016572
返事を読む限り、実際は今までの煽りが冗談ではなく、本気であったことが分かった。冗談かどうかを抜きにしても、あとがきの、あの書き方は既に冗談にはなっていなかったが、本気であのようなことを書いていたわけである。
また、後に私が散々述べることになる、相手に対する決めつけも書いてある。訪問者は(多少は)興味を持って見に来ている、というのは当てはまるかもしれない。しかし、トラセンにもリンクされているブログなのだから、訪問者全員が企画に賛同して見に来ているというわけではない。そういう人たちが観衆という立場で読んでみたエントリーが不快であったら、批判がくる可能性があるくらいのこと、私には常識だと思った。常識だと思っていたからといって、書き方として多少挑発的になってしまったのはよくなかったが。
ここで、私の意見の方向性は固まる。相手がそのようなことを分からないのなら、分かってもらおう、ということである。謝罪がどうこうなど全く関係ない。
しかし、不可解なのは、何故最後にあのような後味の悪い終わり方にしたのだろうということだった。
私の最大の失敗は、あの企画ブログ上で議論を展開したことだろう。相手がそのブログで返事を書いたことから始まるとはいえ、途中で場所を移そうとかいう提案はできたはずだ。あの楽しいはずの場を、より酷いものにしてしまった原因の責任は私にもある。
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070328#1175083280
返事には、「否定的意見を聞くために、敢えてきついことを書いた」ということだった。つまり、あの文章の真意はこれだったということだ。
私はこれを釣りだと思った。何故なら、ああいったことを書かなければ、恐らく批判なんてなかったのだから。それを意図的に誘発したということだ。そして、それはとても身勝手なことだとも思った。
あのあとがきがなければ、だれも嫌な思いをしなかっただろう。企画に賛同できなくても、いままでの檄文は冗談と受け取れれば許せるものだった。実際、冗談としての檄文はエンターテイメントとして成り立っていたといえるだろう。
あのあとがきを公開したことで、あとがきによって批難された人は、

  1. 黙って不快な思いをし続ける
  2. 不快な思いを述べて対立する

という、どちらをとっても嫌な構図になってしまった、と思った。
このフレームの構造は、実はトラセンのMLでも似たようなものであったのではないか、とこのとき思った。正直言って、別に揉める空気でもなかったのに、次第にそのような空気になっていく。対立構造を一方的に作り出す。もともと存在しないものが広がっていくのを食い止めようとする光景は、当事者ながら不思議に映った。一対一のやりとりをしてみて、それが確信に変わった。
だからといって、今思えばそれを書かなければよかったかもしれない、とも思う。書かなければここまで酷くはならなかっただろう。ただ、これは一種の言葉による暴力のような印象を受けたし、許せない思いもあった。このときは、その思いが強かったため、書いてしまったが、議論がこじれるだろうことは覚悟していた。そして、思ったとおり、ここから議論が一気に荒れてきた。
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070329#1175119801
話の核となる部分を読み込んでくれていない。
正直言って私の意見を読もうという気が無いんじゃないか、という印象を受けた。私の意見とコメント欄の意見を一緒にしている。また、「どういう形であれ、投票しない人はしない」というように、自身の中で予め答えが決まっている。「否定する人たち - 自分」という簡単な対立軸に二分して、相手の意見に自身の当てはまりそうな答えを返す、という全く対話になっていない応答である。
対案を出していたが、嫌な思いをしてまで無理にやる人はいない、ということを匂わせて書いておいた。なんというか、これも常識的に相手の気持ちになってみれば分かることだから、匂わす程度でよいと思っていた。
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070330#1175182383
「非難しているつもりはない」という返事に唖然とした。

  1. 結果として批難になっていることを理解していない
  2. 批難という言葉の意味を知らない

のどちらかだと思った。後者はあまり考えられないので、前者だとしても、今まで散々述べてきたことなのだから、まったく人の文章を読んでいなかったのだと分かった。もしくは、もう考えるのをやめたのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070330#1175200985
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070330#1175256127
もはや私の意見に対して、考えることをやめているとしか思えない。
一つ思ったのは、「不快である人が出てきている」のは理解しているが、それが何故なのか理解していないように思った。恐らく、自分がもっと上手に文章を書けば、誰も不快な思いなどしなかった、と思っているのだろう。しかし、それは私の意見とは全く違う。それに対するちゃんとした反論は無かったように思う。
卑怯という書き方は、議論のうえでよくなかっただろう。相手が感情的になり、より対話が成り立たなくなるリスクを分かっていながら、ついに書いてしまったのはよくなかった。相手はこれを個人に対する侮辱と受け取ったようだが、「思考回路が不明」というように、反論といえる反論が無かったため謝罪はしない。(そもそも、他者の気持ちを分かろうとしていないという旨を言っているのに、思考回路が謎なんて返答は皮肉としか言いようが無い)
http://d.hatena.ne.jp/arikui/20070331#1175274211
最後の方の返事を読んで、私も多少感情的になってしまっている。この時点で、もはや私に今までの通り続けるだけの力は残っていなかっただろう。
三者(momdoさんやガトーさん、スラさん)による介入があったこともあり、ちょうどいいタイミングだと思いここでやめることにした。
一連の議論の中核はこれである。

  • 何故あのあとがきを読んで不快に思うのかで意見が違う

それに対する私の意見は以下である。

  • 要らないに対立構造を創り上げ、その結果相手を不快にさせる

多分、今後もこの意見は相手に伝わらない。私はそういった前提で見ていくことになると思う。すなわち、対話が成り立たない人物として。